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12球団選手紹介 〜藤井秀悟(ヤクルト)
今回は左腕エースになれそうでなれない藤井秀悟に着目する。
何かとグラウンド外でのトラブルに遭う事が多く、その度の言動から想像しても神経が太いのか細いのかよく解らない人物である。
そんな選手だから、現状は主力投手なのかそうでないのか不透明な位置に甘んじているのかもしれない。本人はそれで良いかもしれないが、一向にチームを支える大黒柱が現れないヤクルトにとっては溜まったものではない。


アマチュア〜今治西高校−早稲田大学
1999年ドラフト2位入団
1軍初出場〜2000年(リリーフで一軍入りも球質の軽さで苦戦)
初のレギュラー定着〜2001年(多彩な変化球を投げる先発として大活躍)


<その後>
2年間の無理がたたり左ヒジを痛める
主戦投手が一転、リハビリに明け暮れる毎日
キレが戻った2005年、完全復活を予感させる
ここ2年は上手くいかないコンディショニングに苦しむ



高校時代「伊予の怪物」と呼ばれる程の投手だったが、そこで左ヒジを痛めた事もありプロには進まず東京六大学リーグへ飛び込んだ。そこで順調に実績を作り日本代表にも選ばれる。福留孝介と親交を結ぶのはこの時だ。

逆指名という高評価を受けてヤクルトに入団。三振奪取に特徴のある左腕だったが、痛めたヒジの影響もあり速球派ではなく多彩な変化球を投げ分ける技巧派の気質の強い投手である。
そのためリリーフで働いたプロ1年目の2000年は、超速球派である五十嵐亮太・石井弘寿の存在に圧倒されビハインド時の登板ばかりであった。この2人に追随せんと力んでいたのか、制球は悪くないにも拘らず32イニングで20の与四死球を記録してしまうなど簡単に走者を許してリズムを乱す投球が多かった。ただ奪三振は36個で率にして10.02と持ち味はきちんと出した。

ここで登場するのがヤクルトの投手コーチ・伊東昭光(当時)である。太めの体格でプロ入りした藤井を見ては生活態度のだらしなさについて言及し、それはファーム期間でも役割が小川淳司二軍監督に代わっただけでそれは変わらなかった。それだけ藤井に活躍してもらわないと苦しいというのが当時のヤクルト投手陣で、2000年のチーム成績は4位。オフにはFA宣言をした川崎憲次郎が中日に移籍し、外国人投手ハッカミー・レモンも退団。年が明けると伊藤智仁が肩痛でどうにもならなくなり、石井一久が今季限りでメジャー挑戦というニュースも飛び込むなど地雷だらけの陣容となっていた。
そんな訳で不安要素を抱えながらのシーズン開幕となった。開幕ローテーションは前年から一新され石井一以外はハースト・ニューマン・前田浩継・入来智という布陣で、もちろん藤井もその中に加わり第4戦に先発した。いきなり強力打線擁する巨人戦という苦しい相手だったがそこで一歩も退かない投球を見せると、以降も巨人戦で度々好投し巨人キラーとして脚光を浴びる。5月22日に完投ペースで8回まで投げ抜くも、9回表の攻撃でファンに野次られたのが原因で突如リズムを崩したという試合があったのもそんな印象を強める結果となった。結局シーズン後半になっても藤井の勢いは衰える事無く、終わってみれば26試合先発で14勝を挙げて最多勝利のタイトルを手にするに至った。このシーズンを前に変化球により磨きをかけたというのが本人談。スライダーは横浜から移籍した島田直也と出会った事でよりキレるようになり、右打者の外角に落ちるチェンジアップも使いこなせるようになったおかげで完全に技巧的投球をモノにした。数字も見てみると、ストレートの威力が足りないのは24被本塁打に現れ、コーナーワークを徹底しているのが67与四死球に現れている。悪い数字が目立っていても防御率3.17と好結果を残しているところに精神的成長が窺える。

優勝・日本一を果たしたこの年のヤクルト、オフには当初の予定通り石井一はアメリカに渡った。これで押しも押されぬエースに収まっていればその後もヤクルトは優勝していただろうが、やはり野球というものは解らない。
2002年は一転して受難のシーズンとなった。とはいっても成績自体は前年からブレが無い。開幕投手に選ばれたこの年は自己最多となる195イニングを投げ完投5。与四死球も49に減らしているという具合に悪い要素はほとんど無い。なのに世間ではなぜか印象が悪く移っている感じであるし、それは勝利数を14→10に減らしているのが原因とも思えない。
非難を浴びる切欠となったのは伊東らが危惧していた私生活についてである。この年は6月に日本でもサッカーワールドカップが開催された感慨深い年だが、そこで野球界でも6月は変則日程を採るに至った。大のサッカーファンである藤井はこの休日を利用して観戦に出かけたものだが、そこで風邪をひいてしまいローテーションを乱すに至る。この6月の先発陣はホッジス・ニューマンといった外国人投手がひたすら中4〜5日で回り続けたのであるが、そんな中事件が起きたのだから内外共に印象が悪くなったのは当然であった。
同じ左腕である新人・石川雅規が新人王を獲る活躍をしたのもそれに拍車をかけた。藤井と同じく技巧派だが決め球は藤井には無い落差鋭いシンカー。常にイニング数を上回る被安打を浴びながら精神力の強さで切り抜けるのが持ち味でこれも藤井とは異なる点。こうして石井一が居なくなった後その存在が重要になるどころかさらに軽くなった印象を与えてしまい、これがケチのつき始めとなってしまった。

ここから藤井の苦難が始まる。2003年はキャンプ中から左ヒジ違和感を訴え調整を遅らせると、開幕戦を避けて5戦目に登板した。しかしそこで3回途中降板。試合後診断を受けた結果靭帯断裂という最悪の事態が発覚し、このシーズンを棒に振る羽目となってしまった。前年フル回転したホッジスもこの年は精彩を欠き優勝からはや2年でかなり苦しい陣容となってしまったが、この年も巨人と同率ながら3位をキープ。
ひたすらリハビリに務め、ようやく復調の兆しが見えたのが2004年春季キャンプ。そこでの投球練習で見事なボールを投げ続け経過が順調である事をアピール。そして復帰を果たしたのが5月26日。奇しくも相手先発は同じく前年の故障で手術を経験していた中日・朝倉健太であった。だが朝倉と投げ合う前に立ちはだかったのはかつての戦友・福留であった。1回表にいきなり3ラン本塁打を浴びるともはや投球どころではなく、5回途中7失点で散々な滑り出しとなった。その後も不安定な投球を続けたが、この年はヤクルト投手陣全体が浮き足立っていた事もあり「錆落とし」の如く継続してローテーションで投げ続けた。だが13試合目の8月19日で今度はゴロ処理の際に足を痛め再びファーム落ち。消化試合に復帰したのがせめてもの救いだった。

この2年の低迷を取り返すべく、翌年は最高の状態でキャンプに挑み意気込みを見せ付ける。だがこの年は従来とは逆に藤井以外の投手にトラブルが発生するキャンプであった。石川は脛の疲労骨折でスロー調整を余儀なくされ、前年新人王の川島亮はシーズン終盤に発生した右肩違和感が一向に直らず。そんな中柱と期待されたのが外国人のゴンザレスだが、彼もオープン戦で打球を手に受け骨折してしまう。石川は何とか開幕に間に合いそのまま開幕投手を務めたものの、2〜4戦目を坂元弥太郎・高井雄平・石堂克利という経験値の低い選手に任せざるを得なかった。
そして藤井は5戦目に登板。8イニングで14奪三振と「最高の状態」に恥じない投球を魅せた。この良い流れを継続し8月まで防御率2点台前半をキープする快調なシーズンを送る。だが故障明けが招くスタミナ切れは隠せず、9月は調子を乱して失点を重ねた。それでも最終的な防御率は3.43であり、被打率.237はヤクルト先発陣の中では圧倒的な数字だった。
だが限界も見えていた。故障という要素を考慮されてかどんなに好投していても完投する事は無く、27度の先発がありながら完投ゼロ。2002年のホッジス(32試合先発で完投ゼロ)と同じ現象であるが、ホッジスは17勝を挙げたのに対しこの年の藤井は10勝止まりである。防御率も同程度なだけにこの違いは首を傾げざるを得ない。
考えられる事はただ一つ。ホッジスが走者を出しながら辛抱強く投げるのに対し、藤井はほとんど走者を出していない試合でも簡単に失点するからである。2002年のホッジスが200イニングで被本塁打15なのに対し、藤井は176イニングで24本も打たれている。1試合の中でどこか「気の抜けたイニング」というものが出来てしまい失点してしまう。それでいて完投する事は無いのだから、いくら五十嵐・石井弘といった強力リリーフ陣でも「悪くないんだから少しは完投して下さいよ」という思いを抱かないはずが無い(実際この年のヤクルトの完投数はたった3だから負担も相当なもの)。おまけにホッジスは常に中4〜5日で回っていたから完投なしという方策だったのであって、常時中6日の藤井が同じ事をやっているのだから尚更だ。好投してもリリーフ陣が打たれて勝利に恵まれない試合が多かったこの年の藤井だが、そういった意味では勝利できない原因は藤井自身の責任でもあった。ただでさえ自身の投球が原因で中日・ウッズに殴られるという事件を起こす(まあ大部分はウッズが悪いのであるが)トラブルメーカーである。その辺の「無責任ぶり」に救援陣が切れてしまっても可笑しくない。

この「最高のシーズン」にも拘らずエースになりきれなかった代償は大きかった。2年も3年も継続して最高の状態にする事は至難の業であり、頼れる大黒柱・古田敦也も兼任監督となり出番はめっきり減った。アメリカから石井一が戻ってきたのも「エースにならなくても良いか」という思いを増幅させる負の要素となってしまった。
そして2006年、序盤こそそこそこだったがシーズンが進むにつれて調子を落とし、後半はリリーフ降格も味わった。長所だった被打率が.254まで上昇してしまってはそれも当然であった。今季はさらに調子を乱し、被打率は.261。まともに試合を作れない試合を繰り返し、防御率に至っては5.05という酷さだった。完投こそ2006年に1度あるが8イニング完投負けだから実質ゼロといってもいい。
課題としてはやはり体力面で、手術後は常にヒジと相談しながらの登板が続いている。「長く細く」というプロ生活を営むのならそれで良いのだが、FA宣言の前に一度でいいからエースとして我武者羅に1シーズンを投げ抜く藤井も見てみたい気がする。
| dags | 12球団選手紹介 | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |









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